東大ニートが出版した『脱社畜の働き方』に共感できますか?
脱社畜の働き方~会社に人生を支配されない34の思考法
最近では日本の労働環境を問題視するニュースはよく見かけます。しかし、食べていくには収入が必要です。人によっては『起業』という選択肢もありますが、起業にはある程度リスクを伴います。かつ、社会人とくらべて、収入が安定しません。
脱社畜の働き方を出版した東大ニートの日野瑛太郎(@dennou_kurage)さんは、日本の労働環境に問題を感じ、結果として企業を辞めました。脱社畜の働き方では、筆者が考える日本の労働環境の問題点が痛快に描かれています。なかでも、個人的にかなり共感できた文を抜粋してご紹介します。
「社会人」を利用したテンプレート表現
例えば、「社会人なら○○して当然」とか、「□□ができないやつは社会人失格」とか、こういう表現を聞いたことはないだろうか。似たような表現で、「社会人の常識がない」というのもある。 これらの表現は、実は何も言っていないに等しい情報量ゼロの表現である。それなのにもかかわらず、なんかそれっぽく聞こえないでもない。 試しに、これらのテンプレート表現を利用して、理不尽を強要するフレーズを作ってみよう。残業せずに、一人だけ定時で帰宅しようとする社員に対して、残業をするよう命令したい、というシチュエーションを思い浮かべてほしい。例えば、こんなふうに使うことができる。
・変更前
「みんな残業しているのに、お前だけ帰っていいと思ってるのか?みんな残って、頑張って仕事をしているんだぞ。お前には社会人の常識がないのか?」・変更後
「みんな残業しているのに、お前だけ帰っていいと思ってるのか?みんな残って、頑張って仕事をしているんだぞ。お前には社畜の常識がないのか?」・変更前
「いまは会社が大変な時だというのに、お前は残業代が出ると思っているのか?みんな残業代が払われなくても我慢しているんだぞ。会社が大変な時に協力するのは、社会人なら当然だろう」・変更後
「今は会社が大変な時だというのに、お前は残業代が出ると思っているのか?みんな残業代が払われなくても我慢しているんだぞ。会社が大変な時に協力するのは、社畜なら当然だろう」
『ノー残業デー』を取り入れている企業はひどい。
週に一回「ノー残業デー」を設けている会社もある。「ノー残業デー」を設けている会社は自分の会社がまるでいい会社であるかのようにこの制度のことを自慢してくるけれど、これもよく考えてみるとひどい話だと思う。原則的な行動であるはずの定時帰宅をするために、わざわざ特別な日を作らなければならないというのは、「残業」が原則で「定時」が例外という倒錯したルールで会社が動いているのを認めているのと変わらない。
『成長』という言葉の使われ方はおかしい。
成長というのは、基本的には手段であるはずだ。例えば、大学に受かりたいと思ったとする。でも、そのためには学力が足りない。だから、一生懸命勉強して、それこそ「成長」して、大学に受かるだけの学力を手に入れる。こんなふうに、最初に何か成し遂げたいと思っていることがあって、それを成し遂げるための能力が今足りないから、「成長したい」という話になるのが順序的には自然なはずである。 でも、成長意欲旺盛な成長第一主義な人たちを見ていると、これが逆転しているように見えてしょうがない。成長第一主義な人たちに、ゴールを聞くとおそろしくあいまいな答えが返ってくる。「社会起業家を目指す」とか「世界をもっとよりよい場所にする」とか、そんな抽象的な目標で、具体的なアクションにつながるとは到底思えない。なんだかよくわからない抽象的な目標を達成するために、「日々成長のために頑張っています」と言われても、その人がどこに行くべきなのかは誰にもわからない。「成長したい」と思っている人は、成長の結果どこにたどり着こうとしているのかを一度しっかり考えてみてはどうだろうか。目的を定めずに、ただ成長、成長とだけ言っていても、それではいつまでたっても成長することはできないと思う。
辛い環境を乗り越えなくても成長できる。
よく、「成長」を謳う企業なんかが、「仕事はつらいことも多いです。でもその分、大きく成長できます」ということを言ったりするので、成長は苦しくてつらい環境を乗り越えた先にしか存在しないように思っている人がいるけど、実はそんなことは全然ない。別に、こういった苦しい思いをしなくても人間は成長できる。 成長をするために必要なのは一定量の学習だ。そして、重要なことは、その学習を苦しんで行うか、楽しんで行うかと成長の帰趨には関係がないということである。
会社への帰属意識を持ちすぎるのは良くない。
会社に必要以上に帰属意識を持つということは会社に強く依存するということでもあり、こういう生き方をするのはこれからの時代あまりにもハイリスク過ぎる。仮に、今55歳ぐらいの人が、定年までなんとか会社にしがみついてやり過ごそうと考えているのだったらそれは場合によってはアリな選択だと思うけど、例えば20代とか30代の人が、これから定年まで同じ会社にしがみつき続けようというのは、さすがに無謀だと思う。今どき、そんな何十年も安定した状態で存在することが予想できる会社は、存在しないからだ。
社員は『経営者目線』をもたなくて良い
日本の会社では、なぜか末端の社員までもが「経営者目線」を持つことを要求されたりする。会社の業績が危機的だから頑張って売上を伸ばしましょうとか、コスト意識を一人一人が持って会社のお金を無駄遣いしないようにしましょうとか、本来は一介の雇われの身にすぎないはずの従業員が、会社という視点で物事を考えるようなことはごく当たり前のように行われている。 もっとも、この「経営者目線」は、実際にはえせの経営者目線で、例えば細かい経営戦略について一介の従業員が上層部に口出しでもしようものなら、「それはお前の仕事ではない」と言って怒られてしまうのがオチだ。このように、日本の会社では、会社にとって都合のいいように、従業員が「経営者目線」と「従業員目線」の両方をうまく併せ持つようになっている。会社の利益にはなるが従業員にとっては不利益になるというような場合には「経営者目線」を持って行動することが求められ、ほかの場面では「従業員目線」で行動することが求められるのだ。こういったねじれが、日本の社畜的な労働観形成を後押ししている一因になっていることは間違いないと思う。
『逃げるな』という発言は無責任
「逃げる」という行動を無責任だと言う人がいるけど、僕はむしろ他人に対して「絶対に逃げるな」と言う方がよっぽど無責任だと思う。その言葉に従って自分を限界まで追い込んだ結果、その人が壊れてしまったとしたら、「絶対に逃げるな」と言った人は果たして責任が取れるのだろうか。自分に対して言うならまだしも、「逃げるな」なんて絶対に他人に対して言うべきではない。
「勤労の義務」があるのは日本と北朝鮮だけ。
残念ながら、現代の日本には「働いている」人が立派な人で、「働いていない」人はダメな人だ、という変な価値観がある。「働かざるもの食うべからず」という言葉を何の疑いもなく使う人は多いし、日本国憲法には、「勤労の義務」(27条1項)という存在意義のよくわからない条文まである(余談だけど、現在憲法にこの手の労働に関する義務規定を置いている国は、日本のほかには北朝鮮しかない)。