Written by Manabu Bannai

「貯蓄を増やす方法」と「体重を減らす方法」|ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法 by ちきりん

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ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法

ちきりんの『ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法』という本を読みました。本書は『ちきりんによる、毎日を楽しく生きるための極意』という紹介文とともに販売されていますが、紹介文と書籍内の内容は異なるように思います。毎日を楽しく生きるための極意というよりも、むしろ『人生をうまく生きるための極意』が書かれています。ちなみにホリエモンは本書へ以下のようにコメントをしています。

「オヤジの書いた説教本を読むより、この本を読むほうが100倍役に立ちます」 堀江貴文

とても納得です。当記事では、気になった箇所をまとめていきます。

「貯蓄を増やす方法」と「体重を減らす方法」

「貯蓄を増やす方法」と「体重を減らす方法」には共通点があります。まず、貯蓄を増やす方法は以下の3つです。
(1)収入を増やす
(2)支出を減らす
(3)資産を運用する  

手取り30万円のサラリーマンで考えてみましょう。効果が圧倒的に出やすいのは収入を増やすことです。土日にコンビニでバイトをすれば、1日5000円としても月に4万円が手に入ります。一方、月給30万円の人が毎月4万円分の支出を減らすには、相当ケチケチする必要があるでしょう。また、運用で月に4万円を稼ぐのも大変です。月収の10ヶ月分にあたる300万円の貯金があったとしても、月4万円(年に48万円)の利益を上げるには、年利10%以上で運用する必要があります。つまり、本気で貯蓄を増やしたいのなら(会社の副業規定を確認のうえ)、土日にバイトをすべきなのです。ところが貯蓄を増やしたい人の多くが「節約しよう」とか「運用して儲けよう」と考えます。なぜかといえば、結局のところ、その人はそんなに切羽詰まってはいないからです。どうしてもお金が必要なわけではなく、「貯めないとまずいな」くらいだからです。 「来月までになんとしても30万円必要!」という切実な理由があれば、人は夜か休日に働きます。実はみんなわかっているんです。「節約や運用でお金を貯めるのは難しい。確実に貯蓄を増やしたければ収入を増やすことが必要だ」と。  

ダイエットも全く同じです。やせるには3つの選択肢しかありません。
(1)食べない(摂取カロリーを減らす)
(2)動く(消費カロリーを増やす)
(3)筋肉をつける(基礎代謝の高い体になる)  

おもしろいことに貯蓄の場合と全く同じ現象が起こります。「やせたい」という人の多くが「水泳をはじめる」とか「ダンベルで筋肉をつける」といいだします。でも、やせるために最も効果があるのは(1)の食事制限です。高カロリーなもの、すなわち、おいしいものを食べない。これだけでやせます。ラーメンを1杯食べたら、2時間ジョギングしないとそのカロリーを消費できません。運動で体重を減らすのはものすごく大変です。また、筋肉をつければ太りにくい体質になり、体のラインはきれいになります。しかし少々筋肉を増やしても、筋肉が消費するエネルギーだけでどんどんやせていくなんて夢物語にすぎません。

巷に溢れる、節約をして貯蓄を増やそうと考える家庭、運動をして体重を減らそうとする諸兄、ゴミを分類して環境をよくしようと思う人たちは、みんなそれが正しい方法であると信じるためにあえて「思考停止」という選択肢を選んでいます。本当に貯蓄を増やしたいなら、本当に体重を減らしたいなら、本当に環境のことを考えているのなら……やるべきことは別にある、と自分で気がついてしまわないように思考を停止するのです。「頑張っている自分」を手に入れるために……。

「逆バリ」と「先読み」

資本主義の世界では、給与は「需要と供給」で決まります。ということは、給与を上げるためには「供給が少なく需要が多い分野」で働けばよいわけです。

(1)多くの人にはできないスキルを身につける  
供給(=代替労働者)が少ない分野で職を得るためには、他の人とは異なる分野で経験を積み、他の人が学んでいない技術を学ぶ必要があります。周りの人と同じ道を選ぶのはわざわざ供給過多の海に飛び込むようなバカげた行為であり、同じスキルを持つ応募者が多ければ企業側はいくらでも労働力を買い叩けます。けれど、世間の人と違う分野に時間やお金を投資するのは勇気のいることです。しかも親はたいてい本人より保守的で、我が子がみんなと同じであることを強く望みます。だからこそ「他者と違うことをする」というリスクを取った人だけが、高い給与を得られるのです。これを逆バリといいます。

(2)世の中が求めていることが、できるようになる  
他者が持たないスキルを身につければいいとはいえ、スイカの種が100メートル飛ばせても高給の仕事は得られません。世の中が求めていないこと=需要のないこと、ができても意味はないのです。しかも世の中が求めていることを理解するのは簡単ではありません。なぜなら、現時点で求められているスキルは既に多くの人が習得を目指しており、すぐに供給が増えてしまうからです。必要なのは、「将来、世の中で求められること」を予測して準備することです。これを先読みと呼びます。私は、成功した起業家らが金銭的に報われることを当然だと思っています。彼らは逆バリのリスクをとり、先読みして(結果として)当ててきたのです。

将来にわたって給与を上げていくためには、人と違うことをやり(=逆バリで供給の少ない分野を狙い)、ここぞと思う分野を自分で選択する(=先読みで需要が大きい分野を予測する)ことが必要なのです。これからの時代、「みんなと同じだから大丈夫、安心だ」と思うのは、大きな錯覚です。人と違うことをやりましょう!

コミュニケーション能力とは、「受信側のシステムを理解するスキル」

コミュニケーション能力というのは多くの場合「発信スキル」として語られます。たとえば「話し方教室」的なものや「プレゼンテーションの練習」のようなものです。ここでは、「発信者がいかにうまく表現するか」に主眼がおかれています。「私はこういうつもりでいったのに誤解された」とか「わかりやすく説明したのに伝わらなかった」という人も、コミュニケーションは「発信」で成否が決まると考えている人です。けれど、「どう話すか」「どう表現するか」を、話す相手や状況を特定せずに練習しても役には立ちません。同じ言葉でも、相手の性格や場の雰囲気の違いによって相手の受け止め方は異なってくるからです。また言葉は、受信者にとってわかりやすいことが重要なのであって、いくら話し手が「わかりやすいはず」といっても意味がありません。コミュニケーション能力とは、「受信側のシステムを理解するスキル」です。他者の受信メカニズム、感度や感情のバリエーションに対する知識や理解こそが重要なのです。普段から同じような立場の人だけとつきあっていると、「こういう言葉は、こういう意味として伝わる」と無意識にすり込まれてしまいます。

「人間同士、話せばわかりあえる」と思うからつらいのであって、「話の通じない人も一定比率でいる」と諦めれば、考えようによっては「今日は3割も話が通じた!」と喜べるかもしれません。お互い理解しにくいことを認めたうえで、そこから工夫をこらせばよいのです。

人生の舞台の半径が1桁違う。「ホワイトカラー家庭」と「ゴールドカラー家庭」

ブルーカラーは、生まれた町で高校をでて隣町の工場に勤め、近くのバーで配偶者と出会い、子供は地域の学校で育ちます。人生は半径50キロほどのエリアで完結するのです。一方、ホワイトカラーは、金沢で生まれ育って東京の大学に行き、仕事では大阪に配属になるといった具合で、半径数百キロを移動します。さらにゴールドカラーは数千キロを移動します。先日、雑誌で見た米国の投資銀行のチーフエコノミストの方は、中国の田舎生まれ、清華大学(中国の理系トップ大学)の工学部で博士号を取得、その後ハーバード大学で経済学の博士号を取得して国際機関で働き、今は米系の投資銀行で働く傍ら、中国政府のアドバイザーも務めているとのことでした。この移動の距離が、彼がゴールドカラーであることを示しています。日本人でもそういう人が登場しています。日本の地方に生まれて米国で活躍する野球選手、ずっと日本で育ちシリコンバレーで起業する人、アジアに渡りタイやベトナムで働く人。他にも、幼少時から音楽家を志すため欧州で教育を受ける子供たちもいますし、最近はごく普通の人でも、日本ではなく海外で大学進学を目指す人もでてきています。人生の舞台の半径が1桁違う。これがゴールドカラー層の特徴なのです。

もうひとつ、彼らは「誰にも使われない人」です。ゴールドカラーの人は、形式的には会社に雇われていても、自分で主体的に仕事を選び頻繁に転職します。ときには自分で会社をつくりもします。日々の仕事も自ら判断しながら進め、成果のみで評価されます。自分の上司は自分である、という人。これがゴールドカラーのふたつ目の特徴です。  さて、ここ数十年は過渡期なので、長男はゴールドカラー、次男はホワイトカラー、三男は親の事業を継ぐ、という家庭もあるでしょう。しかし3代も経れば、「父も母も兄も妹もゴールドカラーの家」がでてくる一方、「ゴールドカラーなんて親戚中に誰もいない」という家も現れます。ゆっくりと、でも確実に、今の「ホワイトカラー家庭」は、「ホワイトカラー家庭」と「ゴールドカラー家庭」に分化するのです。

ゴールドカラーとは自分で道を選ぶ人たちです。小さい頃から「他人と違う言動」をほめてもらえ、突拍子もないことをいいだしても応援してもらえる。そういう環境から彼らは育っていきます。ある意味では「素直なよい子」と対極にある子供たちの中から、そういう人たちが出現するのです。

就職活動中の学生の多くは「憧れの一流企業」を目指しているのでしょう。でも人気大企業に「何百人かのひとり」として入社しても、明るい未来がつかめる可能性は高くありません。職業人生は内定をもらったところで終わりではなく、そこからがスタートです。であれば、「できるだけ勝ちやすい職場を選んで就職する」というのは、逃げでもなんでもなく、ひとつのまっとうな戦略です。 「友達から『すげ~』と驚かれるような人気企業」に入るより、「なぜ、そんなところに行くの?」といわれるような企業に入ったほうが、自分が鶏口(トップ)になれるチャンスは相当高くなります。であれば、むしろ最初からそちらを狙い、入社後に努力するほうが、就職活動時に人気企業に潜り込むことに努力するより報われやすいのではないでしょうか?「勝てる場所」を選ぶことは、勝つための最初の、そして最も重要なポイントなのです。

諦めずにずっと必死で働き続けることが「不幸の元」

日本では大学から新卒で就職した人の多くが、「自分も将来は部長くらいまでなれて、うまくいけば役員になる可能性だってある」と思っていそうです。4月1日の入社式に並ぶ新入社員はみんな全く同じ条件で雇われており、あたかも横一線に並んでキャリアをスタートするかのように誤解させられています。でも実際には、何百人もの新入社員の全員が「同じ確率で役員になれる」はずはありません。それなのに「すべての人に同じだけのチャンスがある」などと思い込み、諦めずにずっと必死で働き続けることが「不幸の元」なのです。諦めていないと、人は頑張りますから。無駄なのに……。

多くの学生は就職のとき、「会った人がすばらしい人だった」などという、ほとんど意味のない理由で会社を選びます。そんな適当な理由で入った会社でも、やめるとなるとやたらと悩むのです。「自分の頑張りが足りないのではないか?」と考える人までいますが、生まれて初めて選んだ仕事が、自分の人生を賭けたい仕事であったなどという「運命の出会い」は起こらないほうが普通です。

「仕事と勉強と訓練にしか価値がない」という考え

ニートのもともとの意味は、「仕事も勉強も職業訓練もしていない状態」ということですが、その前提には「仕事と勉強と訓練にしか価値がない」という考えがあります。この考えこそ問題ではないでしょうか。世界の全員がたった3つのことにしか価値を認めないなんて、ちょっと怖いです。

「人間の本質」は100年でも変わらない

今から30年前の1980年前半といえばバブル経済がはじまる前で、日本の未来はひたすら明るく見えていました。一方でインターネットも携帯電話もありませんでした。そんな時代の経験から学んだ両親や先生、ずっと年上の社会人からの「大学だけはでておけ」「○○業界は将来有望だ」「とにかく若いときは我慢しろ」のようなアドバイスが役に立つとは考えにくいですよね。しかも世の中が変わるスピードは益々速くなっています。

一方、「人間の本質」に関わるようなことは100年でも変わりません。生まれて、成長して成熟して、老いて死んでいく、というサイクル。嬉しいとか好きだとか楽しいとか、反対に、羞恥心、嫉妬心、憤りのような人間の感情のありようも、太古の昔から変わっていません。こういった「生物としてのサイクル」や「感情や心」に関わるようなことに関しては、人生の先輩がいうことをよく聞いておけば後からきっと役に立つはずです。

したがって、人生の先輩たちが仕事選びや子供の教育などについて何かもっともらしいことをいってきても、若い人はそれを聞く必要はおそらくありません。でも「人間として、人との関わりにおいてどう生きるべきか」という話であれば、それには謙虚に耳を傾けましょう。そうすれば、取り返しがつかなくなってから後悔することを避けられます。

働く時間を増やせば、生産性は下がる

逆説的ではありますが、働く時間を減らさない限り仕事が早くできるようにはなりません。一般にはまじめな人ほど、仕事が終わらないと働く時間を延長します。けれど働く時間を増やせば、生産性はどんどん下がります。生産性とは「アウトプットインプット」で計算する比率です。分母の「インプット=働く時間」を増やしたら、生産性(=仕事の効率)はどんどん落ちます。やるべきことは「より働く」ことではなく、「働く時間を少なくする」ことなのです。

本当は人脈が多いことより、本人が魅力的であるほうがよほど意味があるはずです。魅力的な人の周りには自然に人が集まるので、人脈なんて簡単につくれるからです。「自分が知っている人が多い」状態ではなく、「自分を知っている人が多い」状態のほうが効率がよいですよね。

「プログラム=表現方法」phaさんとの出会い

インターネット上で多くのユニークなウェブプログラムを発表しているphaさんという方と対談したとき、「プログラミングを知ったことで、自分に適した表現方法に出合った」という趣旨のことをいわれていました。この言葉を聞いてちきりんは、「プログラム=表現方法」なのだと初めて認識しました。

誰かに自分のことを伝えたい、理解してほしい、自分自身、今自分の中にあるものを理解したい、というのは、誰もが持つ自然な欲求です。だから、その「自分の中の何か」をうまく表現できる方法やツールを手に入れられたら、とても幸せでしょう。そういうツールとしては、
・話し言葉
・書き言葉(散文)
・短歌・俳句、詩、コピーのような言葉、韻文  
・演芸(落語、漫才、洒落など)  
・写真  
・絵  
・デザイン、意匠  
・楽器  
・メロディ、曲、リズム  
・声  
・体(踊り、体操、表情など様々)  
・演技、劇  
・映像  
・料理  
・プログラム  
・創造物(建造物、モノ、現代アートなど)  
・働き方やビジネス  など、いろいろあります。  
実はこれらの多くは義務教育の段階で体験することです。作文を書いて、絵を描いて、韻文もつくってみるし、音楽の授業では歌って楽器にも触ります。運動会には踊り、文化祭では演技もします。つまりそれらは、「何かひとつくらい自分にぴったりな表現方法を見つけましょう」という教育だったのでしょう。

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