Written by Manabu Bannai

僕は生まれつき手足がない 〜自分を愛する力(乙武 洋匡)〜

BOOKS

乙武 洋匡さんの著書『自分を愛する力』を読みました。ものごとの考え方が素晴らしく、読書中に数えきれないくらい感動しました。とくに共感できた部分を読書メモとして抜粋しました。

僕は生まれつき手足がない

なぜ僕は生まれつき手足がないという障害を「受けいれ」「苦しむことなく」、ここまで人生を歩んでくることができたのか。僕なりに考えてみると、〝自己肯定感〟という言葉にたどりついた。自己肯定感とは、「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」と、自分自身のことを認める気持ち。この〝自分を愛する力〟が、何より、僕自身の人生の支えとなってきたように思うのだ。

わが子が生まれてくるときに願った「元気に生まれてさえくれれば」「五体満足でさえあってくれたら」──ほとんどの命が、そうした親の願いを満たして生まれてくる。だが、たいていの親は、子どもが無事に生まれてきたことへの感謝を忘れ、いつしか「あれができない」「これができない」と、わが子の〝未熟探し〟に没頭してしまう。親だって、自分だって、まだまだ未熟であることをすっかり棚に上げて。

両親の〝手を出さない勇気

僕があれこれ困ることがないよう、すべて先回りして「やっておく」ことのほうが、親としてはずっとラクだったはずだ。しかし、父も、母も、けっしてそれをしなかった。それが僕のためにならないことを理解していたのだろう。両親の〝手を出さない勇気〟が、僕を大きく育ててくれたのだ。

自分で決断することを放棄する人間

まず最初に驚いたのは、授業が終わったあとにかならず寄せられる質問だ。 「先生、トイレに行ってきていいですか?」  僕はその質問に対して、思わず「えっ?」と聞き返しそうになった。さらに面食らったのは、そうした質問をする子どもが、ひとりではないこと。僕のまえに数人の列ができるほどなのだ。  だが、僕はけっして「いいよ」とは言わなかった。以下が、授業後に恒例となったやりとりだ。 「先生、トイレに行ってきていいですか?」  ──いまは何の時間だっけ? 「えっと、休み時間です」  ──休み時間っていうのは、トイレに行っていい時間? いけない時間? 「うーん……いい時間」  ──じゃあ、あとは自分で考えてごらん。  面倒くさい教師だと思われるかもしれない。いや、実際に、僕自身だって面倒くさい。「いいよ」と言ってしまえば、たったひとことですむことなのに、毎日、わざわざこうしたやりとりを繰り返すのだ。  理由は、かんたん。小学三年生という発達段階において、休み時間にトイレに行っていいのかを自分で判断できないのはマズいと考えたからだ。

しかし、こうした症状が見られたのは、けっして休み時間だけではなかった。たとえば、授業中。子どもたちが自分の考えをノートに書きこもうとすると──。 「先生、新しいページにしたほうがいいですか?」 「ここは一行空けるんですか?」  自分のノートにもかかわらず、どのように書いたら見やすいのかを自分で決められず、教師にすべてを委ねてしまうのだ。これは危険な兆候だと感じた。このままでは、自分で考え、自分で決断することを放棄する人間になってしまう。

子どもたちの行動に対して、僕らはあまりに〝結果〟だけで判断してしまってはいないだろうか。成功したから「よくできたね」、失敗したから「こら、何やってるの!」──。大人がこうした態度では、子どもたちが失敗をおそれて、みずから行動しないようになるのも無理はない。  たとえ失敗しても、結果ではなく、まずはチャレンジした姿勢を受けとめ、評価してあげてほしい。

僕らは、授業で「これが正解だ」と教えられ、それを必死になって記憶してきた。そして、テストという場でいかにその記憶を正確に取りだすことができるかを問われてきた。記憶が正しければ正しいほど、いい点数が取れた。それを勉強だと思いこんできた。  ところが、社会に出てみて、愕然とする。「正解」や「模範解答」が存在する問題などほとんどない。どれもが「自分なりの答え」が求められることばかり。だからこそ、僕らは社会に出て、「あなたなら、どうしますか?」と問われたときに、「いったい、どうしたらいいのだろう……」と、戸惑い、凍りついてしまうのだ。無理もない。そんな練習は、家庭でも、学校でも、ほとんど積んでこなかったのだから。

自分の頭で考える

自分に自信を持ち、自分の頭で考え、自分の判断にもとづいて行動する──そうしたことができる人になるには、やはり他者から認められ、受けとめられることが必要なのだ。もちろん、それが親であるに越したことはない。だが、教師という立場からも、子どもたちに自己肯定感を育んでいくことはできるはずだ。

君の代わりは、だれにも務めることができない

ひとつだけ言えることがある。発達障害のある子どもたちは、けっして「悪い子」などではない。ただ大人たちにとって、「都合の悪い子」であるだけなのだ。彼らは、けっして「困った子」などではない。彼ら自身が、「困っている」のだ。

だが、『五体不満足』から繰り返し述べているように、障害者は「劣っている」わけではない。「ちがっている」だけなのだ。それは、発達障害についても同じことが言える。日本が真に成熟した社会となっていくには、この「ちがい」に対して、いかに寛容になれるかが重要だと思うのだ。

僕は、日頃からこんなことを子どもたちに伝えていた。 「この地球上には、六十八億人もの人が住んでいる。これって、すごい数字だよね。みんなは、その六十八億人いるうちのたったひとりでしかないんだ」。そう言うと、子どもたちは「なあんだ」という顔をする。「でもね」と、僕は続ける。「その〝たったひとり〟の代わりを務めることができる人は、この世の中にだれもいないんだよ。『この人が死んでしまったから、代わりにこの人を連れてきました』というわけにはいかないんだ。人間は、機械の部品とはちがうからね」 子どもたちの目が輝きはじめる。「いいかい。君には、君にしかできないことがある。君の代わりは、だれにも務めることができない。一人ひとりが、かけがえのない存在なんだ」

子どもたちが「どう成長したか」が重要

教育とは、「何をしてあげたか」が重要なのではない。子どもたちが「どう成長したか」が重要なのだ。そう考えるなら、〝乙武先生〟だって、アリかもしれない。ほかの先生とは大きく手法が異なるけれど、僕は僕なりのやり方で、子どもの成長に貢献できているのかもしれない──。

マジョリティは正しいのか

大多数の側にいると、多くの人は安心する。自分がいま立っているところは「正しい」場所なのか。そんなことは、考えようともしない。ただ大多数の側にいられさえすれば、それでいいのだ。だから、少数派になることを極度におそれている。「じつは、正義はあちら側にあるのではないか」と薄々気づいていながらも、みずから少数派に回ろうとする人がいないのは、少数派になれば、いままで自分たちが向けてきた偏見という視線を、こんどは自分たちが浴びる側になることがわかっているからだ。

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